眠った村と壊れた橋。

レビュー多。

(習作)刺し殺しと同情の葛藤

《書く前の心がけ》

 出来るだけ単純に、プレーンに書こうと意識しようと思います。




 レビや漫画などのフィクションでいつか見たようなことが起こった。つまり、ぼくのよく利用する大通りに、通り魔が出現したのである。

 通り魔は男で、彼はどこかの飲食店から持ち出してきたかのような、刀身の長い包丁を、捕まえた女性の喉元でぎらりと不気味に光らせていた。

 大通りは混乱して、ぼくは何人もの人に強引に押しのけられた。男と女性の二人の周りには無人の円が空いた。逃げたものもいたが、多数はなにゆえか残り、彼らを注意深く見つめていた。恐らく彼らは、良心がささやくなどして、どうにかこの場に救いをもたらしたいと思ったのだろう。あるいは、社会に身を置くものとして、無辜の女性を凶器で脅かし恐怖させる人間に、鼻持ちがならなかったからなのだろう。ぼくもそれと同じ気持ちで、男のことが許せなかった。

 多分、これから警察官がやって来て、どうにかことは解決するのだろうが、それが穏やかになのか、ひどい犠牲を出してなのかは、誰にも見当が付かなかった。

 

 群衆の中にいて、ぼくは、女性のためにどうにかしてあげたかった。でも、どうすればいいのかが、他の人たちと同じくまるで分からなかった。

 男は興奮している。だから今彼には物事の理非をわきまえることも反省をすることも出来はしないだろう。無闇に正義感に従って向かっていって、仮に彼を取り押さえられたとしても、きっと女性は死ぬ。そう上手く男は出し抜けまい。彼だって相当の準備をして今ああしているのだ。自分が取り押さえられ牢獄に連れられることになるなら、簡単に女性を刺してしまうだろう。そうなると、それを見てトラウマを持つ人も出てくる。

 

 しばらく迷っていると、一人の男が二人の周りのスペースに出てきた。だいぶん群衆の後ろの方にいて、人ごみを掻き分け掻き分け出てきたようだった。ぼくはぎょっとして彼を見、出ない方が無難なのに、と軽蔑の意識を持った。でも、ぼくはほのかに彼に対して尊敬の意識も持った。確かに二人の前に出ないで引き下がっていた方がより無難だ。こんな急迫した状況は警察に任せるが良いに決まっている。それでも出ようとするのは、よほどの勇気を必要とすることだ。彼はそれを持っているに違いないのだ。あの、円の中の三人目の男は。


 「よしなよ」と彼は言った。落ち着いた口調だった。通り魔は彼の登場に驚き、その冷静そうな素振りを見て、目を見開き、少し怯んだようだった。そして自分にとって最悪の事態に備え、刃を女性の首元にいっそう近づけた。よく見ないと分からなかったが、その刃は彼女の小さな喉仏にかすかに触れていた。

 これはまずったな、とぼくを含め、誰もが思ったに違いない。だが、誰もこの緊迫した状況に梃入れできる器用さなど持ち合わせていなかった。はらはらとした気持ちで、見守るほかなかった。


「おじさん、それ、刺すの?」

「あぁ、そうさ。んなこと、あたりまえだろ。何回も言ったんだから。『下手なことすりゃ、こいつを刺し殺すぞ』ってな。」

「そんなの、やめた方がいいよ」

「今更やめられると思うのかよ、このどあほ!」

「じゃ、おじさん、それを刺せるの?」

「あぁ? もちろんだ!」

 そう応えた時、ぼくだけじゃなく、落ち着いた男も気づいたかと思う。通り魔の男は怖がっていた。なににかと言うと、多分、刺すことに。自分が連行されて犯罪者として取り扱われることではなく。

 落ち着いた方の男は首を振った。それは、言語ではっきり言うよりはるかに通り魔を強くたしなめたようだった。

「知ってるはずだよ、おじさんも。」

「何をだよ? 変なこと抜かすんじゃねえよ、こら。」

「痛いってことを、さ。」

 それを聞いて通り魔は首をかしげた。だが、それに続くであろう言葉を彼は無言で欲しがった。

「ナイフで刺すとすごく痛いんだよ。血が出るし。そんなこと、当たり前かも知れないけどね。みんな知ってる。おじさんも知らないはずない。からだに予感することができるはずだよ、包丁で刺す時の痛みを。そうやって、包丁でその女の人を傷つけようとしてはいるけどね。」

 通り魔の刃が少し女性の喉元から下がった気がした、ほんのかすかにではあれ。

「だから、いますぐそんなこと、やめて欲しいんだ。おじさんは今危ないことをしてるけど、悪人なんかじゃないってこと、ぼくは知ってるよ。だって、おじさんは刺されることの痛みを分かるのだから。」

「あぁ、刺されることの痛みはじゅうぶん知ってるさ。だから、それを知りながら刺すことの残酷さだってな。もう、知りたくないぐらいはっきりと知ってる。それでもおれは刺すんだよ、見てろ!」

 通り魔は包丁を持っていない方の手の指を、女性の肩に強く押し付けた。もとより青ざめていた女性の顔からは更に血の気が引いた。それは一見気絶したかのようであった。男は同時に、手が包丁を持っている腕を伸ばした。包丁の切っ先が、女の人の喉を向きながら、見たこともないくらいまぶしく光った。

 

 群衆はだめだと確信して狼狽した。通り魔は強行するつもりだった。落ち着いた男は落ち着いたまま見守っていた。ぼくは立ちすくんだまま、どうなるのか分からなかった。でも、動き出しはしなかった。助けねばならない人がこれから出ると思わなかったからである。


 




 しばらくして、警察官は現場であれこれしていた。パトカー数台と救急車がけたたましい音を鳴らしながら来たが、救急車の方はすぐに去った。通り魔も、落ち着いた男も、女の人もいなくなった。ぼくはぞっとしながら帰った。群衆はまだ残って、互いに話し合っていた。分からないことづくめで、そこから何か学ばねばならないと、強い義務感を持ったからだった。


(了)


《ひとこと》

落ち着いた男のせりふ、寒いかも・・・。

みずうみの文(あや)

 おおむね晴れの今日。真冬の寒さが回復したようで、日中は陽光がよく差してさほど寒くありませんでしたが、朝夕は冷気が下りて、厚いコートが必要でした。

 ぼくにとっては相変わらず冴えない、憂鬱な一日。いつもなら人と少しでも話せばそんな気分はすぐに和らぐのですが、今日はなぜか和らぎませんでした。もしかすると、今回のは、しっかりとした憂鬱なのかも知れませんね。たびたびあるような沈んだむら気ではなく。

 音楽を聴いても、本を読んでも、一向に気は晴れません。まぁ、音楽も本も、それとなく楽しんではいるのですが、余り心療には役立ちません。

 そんな心境で、今日ぼくは、みずうみにふらっと立ち寄ったんです。

 そこは、普段けっこうな人気がある、おっきなみずうみなんですが、夕暮れ時に訪れたせいか、人の姿はまばらでした。もとより気温の低い日な上、水辺で空気が冷たいですから、好き好んで立ち寄ろうとする人なんているわけがありません。

 そんな、残照が辛うじて浮き雲の端にある、らくばくとした環境の中で、ぼくはぽつんと、柵のそばに立ってみずうみを眺めてみました。

 みずうみは、というか、広い水面は、すごく・・・いいものです。(しみじみ)

 みずうみにね――そんなことは当たり前ですが――文様がありますでしょう、さざなみの織り成す、複雑な文様が?

 その文様が、思ってたより綺麗なんですね。

 風の勢いや向きの変化に応じて、波の文様も千変万化するのですが、そのどれにも見応えがあったので、ぼくは無意識の内に、その柵に沿って何回か道を往復してしまいました。

 結果、いくらか憂鬱は治まりました。これは一種の自然療法なのかも知れませんね。


 途中、着想を得たんです。みずうみ観賞の途中にね。

 さざなみの文様が浮かぶ湖面をじっと見ている時、何となく、自然と、水のスケートリンクと風のブレードが思い浮かびました。つまり、水面の上を、風が滑っているわけです。普通の風ならただの滑走。三回まわるつむじ風ならトリプルアクセル。《お、あながち妄りなイメージなんかじゃないかも?》と一瞬思いましたが、いや、だめですね。

 だって、スケートのブレードは綺麗な線を描きますもんね。あんなさざなみのような錯雑な文様なんかじゃなくて。

 ひとりでに思い浮かんだものは何でも価値があると思い込んでいましたが、そんなことはなくて、ちゃんと、ちくいち吟味した方がいいですね。

 長々と書いてしまいました。せいせいしたくて、何となくたっぷり書きたかったのです。

 それではまた(o・・o)/~。

(習作)『恋していたあの50センチ』

 離はいつも50センチメートルだった。ぼくの昔の彼女、しーちゃんとのあいだに空いた、いつもの距離は、そう、50センチ。

 もう別れてしまったけど、今でもよく当時のことは覚えている。ぼくが彼女と付き合っていた、およそ二十年前の、まだ高校生だった頃のあの日々。なんてったって、それがぼくにとって唯一の、かけがえのない青春だったのだ。

 現在ぼくは結婚して娘が一人いるが、嫁との交際は、しーちゃんの時とは逆に、やむにやまれぬ本能とか、みなぎる熱情とかの、男女間の純情を育むエッセンスがすっかり欠けていて、まったく打算的なものだった。ぼくと嫁は、世間体が悪くなることへの防衛という、消極的な動機以外の理由では付き合っていない。ぼくらはそれぞれ相手をていよくするためにパートナーでいる。時機を逸しないよう、若い内に付き合い始め、しばらく後に結婚し、十全に生活の基盤を固めてから、子作りした。抜かりはなかった。上がり下がりのない平坦な日々で、これまでの二十年は、無味乾燥に思える。でも、それは果たして後悔されるべきことであろうか? 娘はすくすくと成長し、相変わらず無邪気で、天真爛漫で、ひどく愛らしい。嫁は家事に加えてパートもし、よくやってくれている。何が不満だろう? むしろ不満など持っては罰当たりなのでは? 

 でも、どうしてすでに終わったはずのクラスメイトとの交際が、自然と思い出されて、それが今とくっきりとした対照を成し、少しの罪悪感や倦怠感、不満感をぼくに募らせるのだろう?

 「暗い顔なんかして、どうかした?」と、テーブルのはすかいに座る嫁が訊ねる。

 「えっ、そんな顔してたかな」とぼくは、あぶなげなくすぐに笑顔を取り繕う。嫁はそれに誤魔化されてくれたようで、それ以上気にかけることなく、顔を背けると、空っぽの食器が残るテーブルに肘を付いて、賑やかなテレビ番組の方に目を遣った。隣りの部屋では、娘がカーペットに寝っ転がりながら、携帯ゲームをしている。


 よく見てみると、思いなしか、今のこの、嫁との距離感も、あの子、しーちゃんと並んで座っていた時と同じだ。

 50センチ。わざわざメジャーとかを使って正確に測った訳じゃなく、ぴったり50センチかどうかは分からない。

 距離感が同じでも、あの時と今はまるで状況が違う。今は、何となく退屈で、嫁には悪く思うが、彼女に対し、少しの胸の高鳴りも感じない。あの時、川辺の芝に二人で座りながら、しーちゃんのまっすぐで綺麗な髪や、時折振り向くそのつぶらな瞳を見ると、気持ちがおごそかに高ぶるのを感じたものだが。


「待って。」

 しーちゃんはそう言った。ぼくが彼女の手を取りに行こうとする時に、決まって、そう。言われたぼくは、いさぎよく諦めねばならなかった。

 初めて拒否された時こそぼくは、自分が嫌われてるのではないか、と自己嫌悪で胸苦しくなったが、何回もそれが続く内に慣れたらしく、その、手を繋ごうとして拒否されるというプロセスは、ある種お遊びのようなテイストを帯びていった。ぼくは何となく、それを愉快に感じていた。その時まだ世間知らずで無邪気だったぼくの情欲は、そんな些細なことで紛れることが出来るようだった。

 <でも、時々は不満を感じてたんだよ?>とぼくは、しーちゃんに対して、ちょっぴりだけ、恨めしく思う。

 彼女の手は遠かった。腕を伸ばせば届きそうな、例の、そんなに長くはない距離を置いた先に、彼女の色白な手はあったのに。

 ぼくは好意を持っていたし、彼女とはよく打ち解けた仲だったし、その手を掴んでも悪くないと思っていた。でも、なぜかダメだった。許しが得られなかった。

「どうして?」

 繰り返しそう尋ねていたぼくだが、かんばしい答は一度も貰えなかった。しーちゃんはただ、静かな、波の凪(な)いだ水面のような眼差しで、いたずらっぽくクスクスと笑むばかりで、ヒントの一つさえ。

 しーちゃんのそれは、優しい笑顔だった。それは、レディーらしく大人びていて、優雅で、婀娜(あだ)っぽくて、見るたんびにぼくは、ますます魅了され、ますます強く彼女に惹かれた。

 決まりきった50センチのぼくらの距離は、ぼくの想像の中でも同じであった。二人で座っていた芝が、夕暮れの海辺とか、風の爽やかな草原とかに変わっても、必ず彼女はその、50センチの距離を置いて離れていた。

 その距離を埋めるアプローチの方法は、どれだけ失敗を重ねていても、幾度彼女の拒否で挫折しても、途切れることなくぼくの頭に思い付いた。きざなセリフを決めてしーちゃんの心を奪おうか、ムードたっぷりなシチュエーションを作って雰囲気をよくしようか、いっそ手を繋ぐなんて段階は飛び越して、全身を強引に抱きしめてしまおうか。そんな風に、ぼくは、プラトニックなのや、よこしまなのを含めて、たくましく色々と想像した。


 「・・・・・・そっか。」

 ぼくはそう呟く。嫁が振り向いて怪訝そうに顔をのぞいてくるが、特にぼくの独り言には拘(かかわ)ろうとしなかった。


 今思い返してみると分かる。しーちゃんとの間に空く、ぼくらを隔てていた、越えられそうで越えられない、いまいましい50センチの距離には、ぼくの想像を含んだ、たくさんの夢が浮かんでいたのだと。憧れていたしーちゃんの笑顔は、その夢に包まれて出来ていた。もしぼくが、彼女の言う「待って」から、自分の情欲に主人を替えて、無粋に、大胆に、その幾多の夢をたけだけしく除(の)けて彼女の手を掴んだりしていたら、その笑顔は色褪せて損なわれ、ぼくらは無残な破局を迎えたに違いない。彼女の輝かしい笑顔は、その夢なしではあり得なかった。

 でも、ぼくはやるせない気持ちを抱いたまま、こらえ続けることが出来なかった。そんな、お互いに懇意なのに触れられもしないような曖昧な関係は、打破したいと思っていた。その先にぼくら二人にとってより良い未来が待ち受けていると信じていた。

 それが祟ったのかも知れない。ぼくがいよいよ告白しようと心を決したある早春の日、しーちゃんは高校をやめた。転校だった。彼女との連絡はいっさい通じなくなった。50センチの距離は、無限にまで広がった。


 ぼくは追想をやめ、おもむろに腕を伸ばして、嫁の手を掴んでみる。何度も掴んだことのある手で、どんな感慨も湧きはしなかった。

 彼女は少しの驚きも見せず、ぶっきらぼうに「なに?」と答えるだけだった。

 周りには現実が満ちている。夢のひとかけらさえ落ちてはいない。

 あの頃にあった夢。憧れた女の子の笑顔。その全ては過去の青春についえてしまったらしく、今のぼくには無関係なように思える。

 でも、ぼくとしーちゃんはまだ微かに繋がっているように感じる。二人の間に空いた、かつては50センチだった空白は、たしかに時間の経過と共に大きくなってはしまったけれど、お互いにすっかり無縁になってしまったという訳ではないようだった。

 しーちゃんは、今どこでどうしているだろう? すてきな男の人と出会っただろうか? 子供は授かっただろうか? そして、ぼくと同じように、あの頃をしみじみとしのんでいるだろうか?

 そんな風に、かなたの彼女に向けて思いを馳せてみると、不思議とまた、あの頃の夢が、しーちゃんの周りに、ふわふわと雲のように漂っていた夢の数々が、もう一度、記憶に残っている雰囲気そのままで、ぼくの周りに浮かんで見えた。

 夢は互いに連なって、ぼくの不満感や罪悪感を全て吸い込んでしまうと、恋心を乗せて、この世の、昔していたような想像がまた憩うことの出来るどこかへと、果てしない軌跡を描いて、まっしぐらに走ってゆく。その軌跡の向こうには多分、ぼくの憧れたあの子が、かつてと同じ笑顔でいるのだろうけど、今のぼくには、そこまで旅することは出来そうになかった。

 ぼくは、守るべき場所をみずから作ったのだ。そこを我だけの事情で、それも、世間離れした昔ながらの恋心なんかに従って、勝手に離れるわけにはゆくまい。

 当時ぼくが親しんでいたあの50センチは、新しく命を吹き込まれて、また生き始めた。かなたのしーちゃんを、ぼくはまた腕を伸ばせば手が届きそうなくらいのところに感じ、くすくすと笑うその声は、遠くの木霊(こだま)のように弱く耳に響く。輝かしく笑むその顔は、目蓋におぼろげに映じる。

 

 二十年という永い歳月の後で、ぼくのもとへと、ほんの一時(ひととき)ではあれ戻ってきた、二度目のまぼろしの青春。かつてと同じの、あの恋していた50センチ。


(了)


<ひとこと>

最後の方は苦しみながらしぼりだしました。