眠った村と壊れた橋。

レビュー多。

消えぬ傷(習作)

 虫の合唱が聞こえる。涼しげな、落ち着かせる声が快い。何という虫なのかは、詳しくないぼくには不明だ。しかし、耳ざわりのよい音色を聞くだけでもう十分であり、どういう虫が鳴いているのかを突き止めることは無用だ。


 木が弾ける音も聞こえる。パチパチと何だか気味のいい音だ。というのは、ぼくのそばで、炎が燃えているのだ。火事というわけではない。
キャンプファイアーのものだ。祝杯と愉楽の炎がメラメラと燃えているのだ。


 辺りは夕暮れでほの暗い。空は白みを帯びた紺色に染まっている。見渡せば湖の広がり。湖面はすっかりと凪ぎ、鏡めいて澄明だ。よく見れば星屑の反映が見える。数えようとすれば気の遠くなるような数の煌めきだ。


 さて、炎のそばにいるぼくは、砂利の上に胡坐を組んで、何をするともなしにぼおっとしている。


 喜びの炎が、憂愁の夜空に向かって火の粉を放つ。その様はまるで蛍が舞っているよう。ぼくは半ばうっとりとしてその星屑めいた光の舞いに見惚れた。


 何だかお腹が空いたような気がする。だが、すぐそばにはインスタント食品のゴミが見下ろされる。綺麗に割れなかった割りばしだの、細切れのネギが張り付いた発泡スチロールのカップだの。要するにぼくは食事したばかりなのだった。まだ足りないのだろうか。であれば、何か足しになるものを食べたい。しかし、もうぼくの手持ちには口に含むことの出来るものは一切ない。尽きてしまった。


 ぼくは簡単に諦念した。ないものはないのだ。周りを見渡したところで、目ぼしいものは見えない。湖に入って魚とりするか? 仮にそうするとすれば、全身がどっぷり濡れる。きっと、風邪を引いてしまうだろう。このキャンプファイアーの熱をもってしても、ぼくは体を冷やし、おかしくなってしまうだろう。そうに違いない。では、断念するのがよい。


 ふうとため息を一度。というのは、諦めの早さ、悪い意味での賢さ、惰弱さ、無気力さ、などの短所が自覚され、自己嫌悪に陥ったためだ。
 逃げの姿勢。その姿勢を、結局ぼくは矯正することが叶わなかった。







 淀んだ水がドロドロと流れる。油が浮いていて、また、プランクトンのような、苔の集合体のようなものが、表面に凝集している。ぼくの家のそばにある、その細い川を見下ろすたびに、ぼくは決まって嘔気がした。油のてかりを一目見ると、顔をしかめ、お腹の方より瞬時に逆流してくる気持ち悪い、その川に似た流れの押し寄せてくるのを感じた。


 顔を伏せ、目を、目の玉が潰れるくらいにぎゅっと強く瞑る。そして目の前の欄干より手を離し、一散に逃げようとふわっと体を飛翔させる。子供のぼくに、そんな動きはお手の物だった。


 しかし、ぼくの服の後ろ襟を掴む粗暴な手があった。ぼくは子猫のように不格好に宙吊りとなり、観念する。


 大きな男がぼくを捕えた。異臭のする息が背後より漂ってくる。その中にはニコチンとか、コーヒーの臭気がむちゃくちゃに混合している。不規則な吐息。不安定な情緒を明示する。


 ぼくは屋内に連れていかれ、ある狭い部屋の畳の上に放擲され、お腹を足で思い切り踏まれる。ぼくは痛みを感じると共に、汚濁の液体を吐き出す。


 何度かこんな目に遭った。そして何度目かに、とうとうぼくは壊れてしまった。ぼくは蹂躙され、破壊され、そして何もかも失った。


 次に目を覚ました時、ぼくはフラフラと病人のように起立すると、夢見るような足取りで檻の中を飛び出した。







 あの時の汚水と、今の湖の清水が、恐ろしいほどの対照を成している。思わず身震いするほどだ。
 晴れて、ぼくは解き放たれたのだ。醜悪などん底より、清浄な天の国へと。鎖は断たれ、ぼくはまた飛翔出来るようになったのだ。
 それは、とても素敵なことではないか? 
 それは、とても明るく、幸せを思わせることではないか? 


 ――その通りだ。


 虫の合唱が聞こえる。何の虫が合唱しているのかは不明だ。
 木が弾ける音。炎はますます燃え上がり、今では夜空を焦がそうというくらいだ。


 つむじ風がにわかに立つ。炎の先端は長く伸びて風に吹かれる草のようになびく。ぼくの髪が吹き上げられ、逆立つ。


 気持ちよくなって目を瞑ると、腐敗のガスが、想念の中の水面にクラゲのごとくゆっくりと浮かび上がり、もわんと不気味に破裂する。異臭。
嗅いだ覚えのある異臭。ぼくは目玉を一時的に潰す。捕獲され、拉致される。そして乱暴の限りを受ける。込み上げてくる嫌な味。


 


 どうしてだろう。全てを捨てて逃げてきた最果ての世界。そう、別世界。なのに、その空には、小さな裂け目が開いて、そしてその間からは、あの汚く濁った流れが、排出されてきて、ぼくの、ぼくのための世界を、汚し、そして侵している。

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