眠った村と壊れた橋。

レビュー多。

ヒーローと、おとなと、こどもと。

思わず涙がこぼれた。


自分の信じる正義が、目の前にある偶像が、否定され、軽んじられ、打倒されようとしたためだ。


頑張れと、ぼくは叫んだ。必死に叫んだ。


悔しいが、力なきぼくには、そうすることが精いっぱいだった。


――しかし、ぼくはすでに大人になったのではないか?


今更、正義だの不正だのにこだわるようなことは、バカバカしいのではないか?


世の中を貫いているのは、正義ではないと、二十より多くのよわいを重ねたぼくは、悲しみと共に悟ったのではなかったか?


――頑張れ。負けるな。


おのれが信じ仰ぐ対象へと向けたその叫びを、だがぼくは、止めることが出来そうになかった。


たぶん、大人になったつもりだけど、なりそこなったのだと思う。


ぼくは未だに、泣き虫で、怒りっぽくて、子供じみている。正義を打ち立て、その価値を信じ、そして保護することを、断念出来そうにない。


正義と悪と。あらゆる物事をすっぱりその二局に分割して、思考し、判断する。あるのは白、そして黒。グレーはない。


だが、白と黒の対極を作ることによって、ぼくは信仰というものを持つことが可能になった。


ぼくは、ぼく自身の正義を信じ、守る。ぼくはそのために、悪と戦わないといけない。


個人の正義は普遍のものではない。世は風雨が猛々しく、そしてぼくと同じように、全ての正義を持つ者の、その正義は、その激しさに晒され、危うさに瀕している。


――勝ってくれ。


そんな応援の、激励の声は、そこかしこで立ち上がる。




ぼくの信仰する正義は、ひょっとすると、将来ダメになる時が来るかも知れない。


だけど、信仰することをやめれば、裏切りをしてしまえば、ぼくは、世の渾沌に飲み込まれ、自分という足場より奈落へと落ちてしまうだろう。


あらゆる正義はその敵と格闘し、傷付き、恐るべき渾沌の中を気丈に切り抜けようとしている。


――頑張れ。




大人の声? 子供の声?




誰かが、何かを応援している。

(ネタばれ有)『さよ朝』の感想

 先日劇場にて本作を鑑賞。『あの花』や『花咲くいろは』を作った岡田麿里さんの最新作であり、また彼女が初めて監督を務める作品であるわけで、私は大いにその出来に期待していた。めんまのようにあどけなく純粋だったり、おはなのようにガッツに溢れたりする、初々しく瑞々しいキャラクターを見、共感させて貰えるだろうとわくわくしていた。


 新たな出会いに胸を膨らませていた。そして私は、作者の自伝を買うほどに、彼女の情熱的なファンであった。


 しかし、残念だった。作品はその期待に、応えてくれなかった。とはいえ、私の期待が過剰だったのだと思う。


 本作はまず、『あの花』と『花咲くいろは』と違い、非現実の物語である。要するにファンタジーだ。その主な舞台はイオルフという、文化あるいはそこに住む人の種によって外界と遮断された、いわば聖域と言える国である。そこでは老化が著しく遅い人々が(中には数百年生き永らえている者がいる)、「ヒビオル」という、記憶を記録してくれる織物を織って、時を過ごしている。「ヒビオル」という名前は多分、「日々を織る」というイオルフの民の営みより付けられたのだろう。
 さてそのイオルフという国であるが、前に述べたように、外界と遮断された国であり、その住民の中には、四百歳に近い者がいるところである。
 しかし――ケチを付けるのは悪いと思うが――そのイオルフが、謎のゴツゴツした巨竜を駆って突然やって来たメザーテという国の軍に、あっさり侵略されてしまうのである。イオルフは酷く手薄であり、脆弱であった。長寿が全うされ、織物が高い塔の天井に届くまで織られるほど歴史の続く国が、果たしてそんなに脆いということがあり得るだろうか。確かに、外界と遮断された聖域であるので、守備が弱いことは特におかしくない。私はイオルフについて、一種の桃源郷であり、閉ざされた世界だと思っていた。だが、メザーテの軍は、平穏でみやびな国まで、簡単に飛んでやって来た。違和感を感じたところである。


 作品では、映像がよかった。『君の名は』のように美しい光景が広がっていた。『攻殻機動隊』や『ひぐらしの鳴く頃に』で有名な川井憲次さんの音楽も、またよかった。川井さんの音楽は、相変わらずしばしば物語を掻き消すほど圧倒的に響いた。


 愛情が、本作の主題であるようだ。それは、主人公の女マキヤと、副主人公の男であり、『あの花』のじんたんに似ているエリアルの間に描かれている。マキヤはイオルフの民であるが、エリアルは違う。彼は外界の者で、母親を凶刃で失った哀れな赤ん坊だったが、イオルフが襲撃された時巨竜に乗って逃げて来たマキヤに拾われて、育てられた。血の繋がらない二人は、親子となった。
 少し場面が進んだところで、嫌な予感を持った人がいるかも知れない。少なくとも私は、互いに血縁のない、ほとんど永遠に老いない女と、若い男の子が、親子の契りを交わして一緒になるということで、ひょっとして彼等がこの先、親子とは違う形で結ばれるのではないかと思い、また恐れた。それは、倫理的と言えないため、余り気持ちのいいことでなかったが、結局物語は幸い、その予感の通りには進まずに済んだ。


 主題の愛情は、彼等親子の間において描かれて行く。
 しかし幾らか戸惑わざるを得なかったのは、その親と子の関係の描かれ方である。少しばかり表面的過ぎないかという憂鬱な思いを持った人は、他にいるだろうか。何となく現実感を伴わない、一般的なイメージに従って描いたような彼等に不満を持った人は、いるだろうか? 少なくとも私は、愛しい子を養うために頑張って働いたり、子の作ってくれた「ヒビオル」を大切に保管したりする母や、彼女を支えるべく拙いながら手伝おうとする子や、彼のちょっとした反抗期特有の態度などに、納得が行かなかった。映画で見る必要のあるものと感じなかったのである。あるいは、マキヤのネグレクトとか、エリアルの家出など、一時的な不幸な別れが物語中に入るべきだったのかも知れない。それぞれ赤の他人同士が親子になってから、子が自立して巣立つまで、マキヤとエリアルが離れることがなかったため、彼等は親子の絆が強くなり確固となるきっかけを逃したのだと思う。ついでに言えば、マキヤの友人である、跳躍が好きなレイリアの、娘のメドメルに対する愛情も同じだった。彼女等のやり取りの描写は皆無に等しい。そのため、互いに隔たっているレイリアがメドメルに、渇望するように会いたがる理由が、自分で産んだからということを除いて、分からなかった。自分で産んだから愛するというのは、人間として、あまりにも単純過ぎはしないだろうか。


 長々と好きでもない批評をして来たが、総評を言えば、物語は構成がしっかりしていたと思う。だが、ファンタジーという独特な世界に須らく必要な説明の不足があったと思う。イオルフとメザーテの周辺諸国とその関係、あの巨竜の謎、その赤目病の詳細、時代設定、等々、分からないことが複数並ぶ。後、余談だが、クリムはあまりにも不憫過ぎただろう。
 音楽や美しい映像の他には特に感動出来なかったが、私自身の情緒に問題がある可能性は否めない。だが、本作を見て、ところどころにマニュアル通りの脚本の書き方があることに失望して、作者に対する好感が幾分削がれてしまった。マニュアル通りの脚本は、吉田玲子さんの方がはるかに上手である。岡田さんの脚本の長所は、ダイナミックな言語感覚と、キャラクターの胸を打つ純真さのはずだ。マキヤは、確かに純真と思うが、めんま、おはなと比べれば、あくまで個人の感想に過ぎないが、見劣りする。


 本作に関してはこれで十分なので、次作にまた期待しようと思う。今度はだが、ファンタジーではなく、現実世界を舞台にして描いて欲しい。
 岡田さんの、自己の長所と短所を意識した、新たな挑戦と活躍を心より望みます。

スランプ(不自由)とある知覚(悟り)

 最近のわたしは前と違う。何がって、音楽が不要なのだ。何か考える時、例えば二次創作のネタを練っている時などには、以前までは何か適当なBGMをイヤホンから流していないとはかどらなかったのだが、それが今は逆で、無音の方がはかどる。
 
 からだというのは実に不思議なものですね。必要だったはずのものが何の前触れもなく邪魔になるんですから。
 ま、いずれにせよまた音楽が必要になる時期が来るんでしょう。音楽はわたしにとって決して欠かせないものですからね。ノーミュージック何とやらです。


 スランプ状態の今のぼくに、ある偉人の名言がひらめきました。つまり、スランプというのは、自己の認識と現実との間にある差への違和感なのです。
 正しいのはいつだって主観的な考えなどではなく現実なわけで、要は、スランプを自覚しているわたしは、変な悩みなんかでくすぶらずに、とっと現実を認めそれに甘んじるべきというわけです。


 あるがままを受け入れよ!というわけですね。それが中々難しいんです。


 皆さんも現実頑張りましょう。