(習作)暗いお話
ぼくが実の家、すなわち親の膝下を離れてから、かれこれ一ヶ月経つ。
それは、一人暮らしを始めるのではなく――何か他の、大人っぽい、恥ずかしい思いをせずに済むような言い方があれば良いのだが――家出である。
ぼくの年齢が十代の半ば、ないしは後半であればまだ、家出しても、それは若気の至りとか、青春の嵐として、幾らかの理解が、例え軽蔑の念と共にではあれ、得られるであろう。
だが、残念ながら、ぼくはすでに二十代の、それも半ばに差し掛かっていた。
自分が家出したなんて、口が裂けても人には言えなかった。もし言えば、自分のプライドがことごとく、再起へのリハビリが困難になるくらい、損なわれるだろう。守るべき、守るに値するプライドなど、ぼくには微塵もなかったのだが。
とにかくぼくは家を出て、悄然とさまよった挙句、一軒のアパートに、廃墟とは言わないまでも、ぼろぼろのアパートにたどり着いた。
今はそこで細々と暮らしている。
前金も払えないような寂しい懐だったが、僥倖に恵まれ、家主のお情けが下り入居を許されたのだ。
ぼくに宛てがわれた部屋は六畳の、割と手広い部屋だった。一つの家具もなかったが、手足を伸ばして寝られるのは、喜ぶべきことだった。
ぼくは一応バイトをしていたが、それで得られる月収はたった三万円だけだった。
真剣に生活していくことを考えるなら、バイトを早急に増やす必要があった。
しかし、ぼくは、バイトを増やさなかった。というより、増やせなかった。その意欲がなかったのである。
ぼくは何というか、衰弱していた。生きる気力とか希望を養ってくれるものが、恐らくすっかり枯れているのだろうと感じた。見る人が見れば、ぼくは心の病気を患っているに違いないと考えただろう。
家賃はおおよそぼくの月収と同じで、毎月の徴収に応えられないことはなく、律儀に支払った。
そのため家主は、衰弱している様子であっても、きっちり家賃を支払うので、まさかぼくが恐ろしく少ない月収で糊口を凌いでいるなどと知るはずがなかった。
だが、はっきり言って、凌げてはいなかった。
ぼくはどうしようかと困惑していたが、それでもじたばた足掻くことなく、長々と、ささくれだった畳の間にぐったり横たわっていた。
或る、月の円い、明るい夜。
ぼくはお腹が減った気がして、無性に何かが食べたくなりだした。
しかし部屋に冷蔵庫はないし、買い置きしたお菓子とかの、何かすぐに食べられるものすらない。
ぼくは仕方なく、壊れて紐で閉めている玄関のドアを開けて、向かいの、その名もその姿も知らない住人の部屋を訪ねて、か細い声で呼びかけた。
「すいませーん。」
特にスパンなく、「はーい」と声がした。「どなたですか?」
「向かいの と申します。」
「どうされたんですか?」
「お腹が空いたんですけど、何もなくって、少し、何でも良いので、おすそ分けしていただけたら嬉しいのですが・・・」
食べ物を乞うなんて、プライドはどこに行ったのだろう、慇懃な前置きなく、ほとんど出し抜けに、無礼なリクエストをするなんて。多分、ぼくは本当に貧窮していたのだろう。ぼくは、ハイエナとかハゲタカに限りなく近いが、それらのけだものになりきることの出来ない、極めて卑しい、最も下級の人間だった。
ぼくの要求の後、向かいの人は「ちょっと待っててください」と言った。
それからしばらくして、扉が少し開くと、その中から微笑を湛えた、そばかすのせいで少し垢抜けない印象があるが、優しそうな表情の若い女性が、「粗末なもので良ければ」と照れながら言って、ラップで塞がれたお茶碗と四角形のパックを手渡した。
「納豆と、白ご飯です。こんなものですけど、よろしいですか?」
ぼくはこみ上げてくるものがあり、感涙にむせびながら、「ありがとうございます」と述べた。久しぶりに人と喋ったお陰か、懐かしくあたたかな気持ちになった。
再び女性に慇懃に礼を言って、部屋に戻ると、ぼくはコンビニの袋に入っている使い古しの割り箸を取って、食事しだした。茶碗のラップを剥がすと、納豆のパックを開け、タレとからしを入れて混ぜた。中々糸を引かないので、「おや?」と思い、パックを調べてみると、納豆の賞味期限が幾らか前で切れていることが分かった。が、においに違和感はなく、口に入れてみても変な味がしないので、ぼくは勢いよく食べた。ご飯の方はだいぶん前に炊いたものらしく、乾いていて、飴玉のように固かったが、よほどの空腹のせいで、特に気にならなかった。きれいに食べ終わった後に、空っぽの茶碗に水道水を入れて飲むと、素手できれいさっぱりに洗浄した。
それから数日間は、食べ物を施してくれた女性のことを思い浮かべながら、部屋に横たわっていた。その間は、比較的幸福な期間だった。
それから一ヶ月が経った或る日の、月の円い晩、ぼくはまた堪えきれない空腹を感じたので、ドアを開けて、例の女性の部屋を訪ねた。
ところが、様子がおかしかった。ノックしても、呼びかけても、まるで空っぽのように何らの反応さえないのである。
彼女は、引っ越したのであった、いつの間にか。恐らくそれは、ぼくがバイトに行っている間だったのだろうが。
ぼくはしょんぼりとして、仕方なく、その隣りの部屋を訪ねた。すると、「ごめんなさい」と遠ざけられた。その反対側の部屋に行ってみた。「恥知らず」と言われた。その隣の部屋の前に行くと、丁度住人が帰ってきたところだった。が、物凄い目付きで睨まれて、ぼくは何も言えなかった。その後、全部の部屋を巡った。最終的にぼくは、恐るべき暴言を吐かれた。「死ね」とか「くたばれ」とかそういった類のものである。
ぼくはもうダメだと思った。部屋に帰り、畳のささくれをむしゃむしゃ食みながら、翌月の月収の徴収の直前まで、何か言うまでもないようなどうでもいいことを考えたり、感じたりしながら過ごした。バイトへは一度も行かなかった。ごくみじめな生活の中で、貧乏にしいたげられている身体が、空前絶後の脅威的な嵐のようにぼくを行動へと駆り立てたが、人形同然になっていたようで、実行されることは何もなかった。
美味しくも不味くもない畳を食べまくって、ぼくは自分が藁人形になってしまうのではないかと思った。それは嬉しい気持ちにさせた。人間より藁人形の方がはるかに良いと、ぼくは感じていた。